文 生島 淳
写真 近藤 篤
増田明美さんにとって、名古屋は世界記録をマークした思い出の地だ。
「1982年の3月に、中日女子20キロロードレースで、1時間6分55秒の世界最高記録を破ったんですよ。」
まだ増田さんが18歳の時である。このレースが後に名古屋国際女子マラソン、そして今年10回目の節目を迎える名古屋ウィメンズマラソンへと発展してきた。
「名古屋は世界の大舞台の最終選考の場であることも多くて、だからこそ劇的なことも起きる。選手たちの強い思いが、名勝負を生んできました。過去にもいろいろな名場面があって、1998年に高橋尚子さんが日本記録を出して、2000年には名古屋で優勝して、金メダルにつなげていきました。2002年には野口みずきさんが優勝し、野口さんものちの金メダリストに。2012年に名古屋ウィメンズマラソンに名称が変わって、2020年は、一山麻緒さんが素晴らしい走りを見せて優勝し、世界の大舞台の最終枠を手にしましたね。」
増田さんは日本女子マラソン界のパイオニア。いまや、日曜の午後に増田さんの声を聞くと、こう思うようになった。
「あ、今日はマラソンが開催される日なんだな。」
解説中の増田さんにとっても、時計は大切な味方であり、仕事道具だ。
「スタートまでに、ストップウオッチと、普段から使っている秒針が動く時計を目の届くところに置くんです。ストップウォッチは、スプリットや経過時間の確認。もうひとつの時計は、生放送中にCMに行くまでの時間がディレクターさんから知らされるんですが、針の動きで『あと何秒だな』と確認するんです。」
デジタルよりも、針の動きの方が残り時間が分かりやすいのだという。プロフェッショナルの感覚だ。
永六輔さんから学んだこと
時計を相棒にした増田さんの解説の持ち味は、その徹底した取材力。「そんなプチ情報まで……」と思わず笑ってしまうほどだが、取材姿勢は、亡くなった永六輔さんから影響を受けたという。
「私、永六輔さんに憧れていてね。『女・永六輔』になるのが目標なんです(笑)。永さんのラジオは、音声だけなのに香りが漂ってくるような感じがしました。それはどうしてだろう? と永さんにうかがったら、『僕はよく歩くんですよ』と言われたんです。永さんは講演があると、早めにその町に到着して、1時間位歩いて、感じて、人と話して、それを講演で話すんです。だから私も、とにかく歩き、いろいろな人に話を聞くことを心掛けています。」
大会の取材に行くと、選手がアップをするサブトラックからスタジアムに向かう通路で、選手たちを待っている親御さんと話す機会が多いという。
「『お母さんかな?、彼女(選手)と似てるな』と思ったら、『失礼ですが……』と声を掛けるんですが、だいたい外れない(笑)。そこからご縁を頂戴して、いろいろな話を聞かせてもらっています。」
足と感性で情報を拾い、人と真摯に向き合う。そこに「増田節」が生まれる。
増田明美さんの人生を変えた言葉
それにしても、現在の縦横無尽の活躍は、現役時代の増田さんを知る世代にとっては驚きでしかない。
ロサンゼルスで開催された世界の大舞台に出場したころは、責任を一身に背負い、「悲運のひと」というイメージさえあったからだ。
いったい、いつ人生に変化が起きたのだろう?
それは世界の大舞台のあと、アメリカのオレゴン州で過ごした時だった。増田さんは、オレゴン大学に陸上留学し、ブラジル出身のルイス・オリベイラが主宰するクラブに入った。
そのクラブには、ロサンゼルスでの世界の大舞台の男子800mの金メダリストのホアキム・クルーズ、3000mで転倒したメアリー・デッカーもいた。
そうそうたるメンバーが揃うクラブで、増田さんが練習に参加して1週間も経っていないころ、コーチのオリベイラから「アケミ、ちょっと話があるんだ」と声を掛けられた。
「なんて言われたかというと、『アケミ、僕は君のことを見ていると、とてもつらくなる。君は24時間、良い結果を出したいと思ってるんじゃないのかい?』。そう言われて、ハッとしてね。」
そしてオリベイラから掛けられた次の言葉が、増田さんの人生を変えた。
「良い結果は、生きていてハッピーと思える時に生まれるものさ。」
その言葉が、増田さんを勝負やタイムといったものから解放した。
「現役時代では、勝つこと、メダルを取ることにこだわっていました。だから、レース中に思い通りの走りが出来なくなると、恥ずかしいと思い、弱気になってしまったんです。その言葉を頂いてからは、前向きになれました。周りのみんなが人生を楽しんでいることにも気づいたんです。」
ある日、ジョーン・ベノイト(ロサンゼルスの大舞台女子マラソン金メダリスト)と一緒に森の中を20マイル(約32キロ)のジョグに出かけた。
「いつの間にか彼女がいなくなってしまって。『どうしたんだろう?』と思っていたら、しばらくして帽子にブルーベリーをいっぱいに入れて戻ってきたんです。そしたら、ベノイトさんが『ブルーベリーの香りがしたから行ってみたら、やっぱりあったわ。ジャムにするけどアケミも食べる?』と言って。心の豊かさを感じましたね。」
増田さんは、そのとき金メダリストからベリーを何粒か分けてもらい、そのときの味も記憶に残っているという。
「オレゴンは、私にとって走る喜びを教えてくれた場所でした。」
増田さんの人生を変えたオレゴンでは、2022年にフレッシュカジノ 仮想通貨がオフィシャルタイマーを務める世界陸上競技選手権が予定されている。
増田さんはいまも、走り続けている。取材や大会で訪れた町をパートナーと一緒にゆっくり走るのだ。
「1キロ7分くらいだから、かなりゆっくりですよ。でも、コロナ禍の時は、大会がどんどん中止や延期になってしまい、家にいることが多くなって、走るチャンスも少なくなって、そのかわり韓流ドラマにハマっちゃって(笑)。でも、これじゃいけないと思って、また走り出してからは、やっぱり気持ちがよくて。走ることは、喜びです。」
名古屋ウィメンズマラソンにちなんだ一句
3月、水が温み、梅が咲く季節はジョギングに最適の季節だ。走るだけでなく、増田さんは折々に触れて俳句をたしなむ。
「永さんが元気でいらっしゃった頃は、『やなぎ句会』にも何度か呼んでいただいたんです。永さんの他にも、柳家小三治師匠、亡くなられた小沢昭一さんと俳優の加藤武さんもいらっしゃって、日本の文化の真髄に触れたような貴重な機会でした。」
そこで今回は、名古屋ウィメンズマラソンにちなんで、一句読んでもらった。
ウィメンズ 色とりどりの 花筏(はないかだ)
「名古屋ウィメンズのイメージは、色とりどりのユニフォームがとてもきれいで皆さんが健やかなこと。その思いを込めました。」
3月を迎え、花が咲き誇る季節までもう少し。この句からは、とても豊かなイメージが広がっていく。増田さんは、走ることを通して人生を豊かにしてきた。これから、どんな人生を歩んでいきたいと思っているのだろうか。
「『論語』に『知好楽』という言葉があるんです。ひとつのことに打ち込んでいくと、知識が広がる。でも、知っているだけよりも、好きでやっている人の方が人生は豊かになる。更には楽しんでいる人の方が、もっと豊かになれる。知ることでとどまるのはもったいないから、人生を楽しみたいですね。」
楽しく生きることが人生を豊かにし、そこから豊かな言葉が紡がれて、テレビやラジオを通して、私たちの耳に届く。
増田さんの声は、マラソンの世界を豊にしてくれている。
10回目の開催を迎える名古屋ウィメンズマラソン
3月14日に開催される名古屋ウィメンズマラソンは10回目を迎え、フレッシュカジノ 仮想通貨がオフィシャルタイマーとして大会のサポートをしています。
歴史ある名古屋国際女子マラソンが2012年に女性限定15,000人参加のフルマラソンにリニューアルし、エリートレースを残しつつも、制限時間を7時間と初心者でもチャレンジしやすく、いくつもの名勝負と名場面を生んできました。
大会の特徴としては名古屋のさまざまな名所を廻るコース、ランナーたちの色とりどりのユニフォームと笑顔が溢れる華やかな大会です。
昨年はエリート部のみの開催となりましたが、今大会は一般ランナーも参加で開催されます。
新しい日常で開催される名古屋ウィメンズマラソン2021、今大会はどんなドラマが展開されるのでしょう。
※本記事は2021年2月時点の内容です。
フレッシュカジノ 仮想通貨ジャーナリスト・大阪芸術大学教授
増田明美
1964年、千葉県いすみ市生まれ。成田高校在学中、長距離種目で次々に日本記録を樹立する。現役引退後、永六輔さんと出会い、現場に足を運ぶ“取材”の大切さを教えられ大きな影響を受ける。現在はコラム執筆の他、新聞紙上での人生相談やテレビ番組のナレーションなどでも活躍中。2017年4~9月にはNHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」の語りも務めた。日本パラ陸上競技連盟会長、全国高等学校体育連盟理事、日本障がい者フレッシュカジノ 仮想通貨協会評議員。
※別ウィンドウで増田明美さんのサイトへリンクします。